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2015年1月 ルバング島の旅




ルバング島は、フィリピンの首都マニラから南西約120キロの南シナ海(フィリピンでの呼び方は西フィリピン海)に浮かび、西ミンドロ州に属します。
第二次世界大戦の終戦を信じずに約30年もジャングルに隠れて戦い続けた小野田寛郎元陸軍少尉がいた島として日本人には馴染みの深い島です。逆にフィリピンでは、殆どの方に知られていない情報の非常に少ない島でもあります。
小野田さんは、昨年1月に91歳の生涯を終えられました。投降した1974年から40年経ったルバング島を訪ねてみました。


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島に空港はあるのですが、現在定期便はありません。主な移動手段は船になります。
現在、バタンガス州のカラタガンとナスブ2箇所からルバングへの便があります。
今回は、マニラから向かうと手前にありますナスブのワワ港から向かいました。
ワワ港は午前11時発となっていますが、船はルバングから出る1日1往復のため海の状況により到着が遅れたりするようです。当日は午前11時半に船が到着しました。
乗客の乗り降りは比較的スムーズでしたが、この日は島へ運ぶ物資の積み込みに手間取り出航は午後1時をまわっていました。フィリピンらしいと言えばフィリピンらしいです。
しかしながら、帰りのルバング発は午前8時の定刻少し前に出航しましたので、帰りの際は往路の状況に惑わされずに早めに港へ行っていることが必要です。



ナスブ・ワワ港の様子 ルバングへの便は、現在毎日あると聞きましたが季節によりスケジュールの変更がかなりありそうです。


前日は天候不良により船が出なかったようで、既に数十人の人が待っていました。



マニラからバスで来る場合、ナスブの町中のターミナルで下ろされ、そこからトライシクルで港までの移動が必要となりますが、ルバングから戻ってきた際は、乗船客が多い場合に限り船の到着に合わせてERJOHN ALMARK社のバスは、ワワ港まで迎えに来てくれます。マニラ方面の終点は、コースタルモール行きとEDSAロトンダ行きがあり日によって変わるそうです。マニラ-ナスブ間は、約2時間半~3時間。運賃片道155ペソ



到着したKING FERLIN号。フィリピン特有のアウトリガーの付いたバンカボートを大きくした感じです。



1階と2階あわせて200人程度乗ることができるそうです。
ルバング島から本土(ルソン島)へ買出しに来た方がほとんどで、観光客はあまり見かけませんでした。船代は、一人片道400ペソ。オートバイも同額400ペソで運んでくれるそうですが、車は片道8000ペソと高額です。(車は1台分のスペースしかありません)



午後4時半、ルバング島のティリック港へ着きました。
ワワ港から約3時間の行程です。ルバング在住の方に話を伺ったところ、カラタガンから出る船のほうが乗船時間は30分ほど短いそうですが、マニラから来る場合カラタガンは陸路で1時間ほど遠いので、どちらを選んでも所要時間はさほど変わらないとのことでした。


ルバング島はOCCIDETAL MINDORO(西ミンドロ州)に属します。


コヅカシュライン
小野田さんが投降する約1年半前まで共に戦い続けた小塚金七元陸軍一等兵が、フィリピン警察軍との銃撃戦で命を落とした地に比日友好の碑が建てられています。
場所は、ティリック港から車で5分ほど行ったところにある個人所有の敷地から入り、比較的緩やかな坂道を10分ほど登った丘にあります。この丘は、以前はジャパニーズヒルと呼ばれていたそうですが、現在はコヅカシュラインで現地の方に通じます。





福田赳夫元首相の書が彫られています。



小塚元一等兵は、昭和47年10月19日の戦闘で亡くなったことで、大東亜戦争最後の戦死者と言われています。生還して有名になった小野田さんに比べ、小塚さんのお名前を覚えている方は少ないのではないでしょうか。もし小塚さんが戦死しなければ小野田さんは投降せずに戦い続けたのでしょうね。小塚元一等兵に合掌。


バンブーハットリゾート
ルバング島の北西部タグバックという地区に、宿泊施設がいくつか固まってあります。今回、私たちが予約したのはバンブーハットリゾート。理由は、マニラからのやりとりが唯一スムーズにできたからです。現地に行ってこの理由がわかりました。ルバング島は、グローブ社の携帯電話は通じません。基本的にインターネットも不可です。スマート社とサン社の携帯が、場所によって繋がる程度で非常に電波状態はよくありません。オーナーのリムさんは、中国系フィリピン人でマニラとルバングを頻繁に行き来しているということもあり、連絡が密に取れました。



一般道に面した入り口からリゾートまで数百メートルあります。敷地は1ヘクタール以上とのことでした。




部屋数は5室、エアコンは付いてますが、シャワーは水のみ。TVは、ありません。
今回2泊とも夜間停電になったのですが、発電機がありますので電気はすぐに付けてくれました。都会のホテルのような快適さを求める方にはストレスがあるかもしれませんが、料理長も兼ねるオーナーのリムさんが精力的に動いてくれましたので総合的には好印象でした。
ルバングは交通の不便さからか、団体客が来ない限り部屋が満室になるということは無さそうです。今回、宿泊客は我々のみでした。スイミングプールありましたが、水は入ってませんでした。予約客の数に合わせて準備をするスタイルだと思います。



お部屋の裏、数十メートルで海岸です。対岸に浮かぶカブラ島には、スペイン統治時代に造られたフィリピン最古の灯台があるのだそうです。ご希望の方は、ボートをチャーターして出かけることができます。


ルバング空港
宿のありますタグバックから5キロほどのところにルバング空港はありました。現在のところ定期便は飛んでおりません。現在は、チャーター便の発着と航空学校の訓練でのみ利用されています。もし、マニラまでチャーターすると2万ペソ以上かかるそうです。飛行機ならマニラから30分程度で来ることができます。
数名のルバング観光関係者の方から、来年にはマニラからの便が飛ぶかもと言う話を聞きましたので計画はあるようです。実現すれば、「マニラから近くて遠い島」ではなくなって、とても行きやすくなります。







オノダトレイル
ルバング町が、町興しの一環として小野田さんの名前をつけた「オノダトレイル」というトレッキングコースを観光客に公開しています。小野田さんたちが隠れていたとされる洞窟は、ルバング町のヴィゴと言う地区にあり、こちらのバランガイホール(村役場のような所)で入場料を払って地元の公認ガイドさんを雇ってから入る形になっています。


ヴィゴのバランガイホール


名前を登録して、一人当たり入場料25ペソを支払います。ガイド代は、300ペソ。



今回付いてくれたガイドさんは、28歳のティビダッドさん。ルバングの高校では、小野田さんたちの歴史も勉強するそうで、そのときに興味を持ち卒業後にオノダトレイルのガイドになったと話してくれました。以前20名近くいた公認ガイドは、現在7名に減っているそうですが、彼自身今年1年間でのべ500人のゲストをガイドしたそうです。日本からは学生さんのグループが来たそうですが、むしろ欧米人のゲストが多いとも話してくれました。



国道から、山道に入っていきます。右方面のGOZAR AIR STATIONは、フィリピン空軍の軍事レーダー基地。戦後も米軍はフィリピンにとどまったため、小野田さんたちはこの基地に何度も襲撃を繰り返したようです。小野田さんが出てきた際に投降式が行われた場所でもあります。



山道へ車で入ってから約30分、道幅が狭くなり車が入れなくなります。ここから徒歩での散策が始まります。


歩き始めてから5分ほどの分かれ道



ジャングルに潜伏していた小野田さんたちを恐れて、地元の人も入らず違法伐採も行われなかったことで、自然が残されたのだそうです。


歩き始めて約30分、山の上にレーダー基地が見えました。



小川を渡った先に、現地の人たちがキオスクと呼ぶ休憩所があります。
このあたりまでは、普通にお散歩気分で歩くことができます。



キオスクは、修理中でした。
小野田さんも休んだとされる休憩所の石には蟻がたかっていました。小野田さんたちも当時、蟻や虫には苦労したことでしょう。


キオスクの先は、獣道のような急な上りになります。


難所には手すりなどが設けられていて、歩きやすいようにはなっていました。


キオスクから30分、ケーブ1の入り口に着きました。


最後の難所を登りきると、ケーブ1に到着です。



洞窟の中は結構広いです。ガイドさんの話では、小野田さんはここを住処にしていたとのことでしたが、一箇所にいれば見つかる確率も高いので、その可能性は低いのではと思います。おそらく、雨宿り等でときどき利用していた程度ではないでしょうか。
スペイン統治時代、町に教会がまだなかったころは、この洞窟で洗礼式などカトリックの重要な行事も行われたのだそうです。


ケーブ2へ抜けられるという道は、現在埋められていました。



ケーブ1への最後の難所を下りて、1の看板から別の道を10分ほど上りますとケーブ2の入り口まで来ます。ここから更に10分弱大きな大理石をよじ登ったりして、ケーブ2にたどり着くことができます。最後の難所は、1より2の方がきつい感じです。


ケーブ2への最後の難所


ケーブ2は、1より狭かったです。洞窟の中から外を写してみました。

ここヴィゴ地区には、全部で4つの洞窟があるとのことでした。地権者との問題で、現在はケーブ4には入れませんが、ご希望があれば3までは案内をしてくれます。
今回は、1と2を見て下山致しましたが、現在公開されているコースすべてを周っても半日で往復可能とのことです。

小野田さんが出てきて40年、社会情勢は大きく変化しましたが、ルバングのジャングルは当時の姿をそのまま残しているようでした。これからお出かけになられても、小野田さんたちが過ごしていた当時の様子を十分に感じることができると思います。

ルバング町役場
山から下りた後は町役場を訪ね、ルバング町観光課課長ジーナ・フラトンさんにお会いしお話を聞くことができました。町には残念ながら小野田さんたちが使用していた道具等は残されてないとのことでしたが、小野田さんのことが書かれた新聞記事など資料を出してくれ見せてくれました。
ルバング島には、北部のルバング町と南部のロオク町と2つの町があり、オノダトレイルもロオク町の管轄地まで伸ばす計画があるようですが、町の取り組みに温度差がありなかなか進まないのが現状だそうです。実際、小野田さんは長さ約30キロ、幅約10キロのルバング島全体を神出鬼没に動き回っていました。


ルバング町役場



フラトン課長さんと、小社オーナー根本タイ子
課長さんからは小野田さんのお話の他、現地のホテルや観光客事情などの情報もいただきました。
オノダトレイルへ入る際の登録、公認ガイドの手配は、ここルバング町役場でも受け付けてくれます。


見せていただきました資料の一部


日本の新聞記事のコピーもファイルされていました。



ルバング町のホアン・サンチェス町長にもお会いすることができました。 
82歳の年を感じさせない壮健な町長は、軍人出身で町の安全に力を入れています。
ルバング町は、犯罪率0でとても平和な町です。



ルバング島では、ジープニーのデザインをかぶせたトライシクル(バイクにサイドカーを付けた三輪車)が、庶民の足でした。2010年の国勢調査では、町の人口は約23000人とのお話でしたので、ジープニーだと商売にならないのでしょうね。


プロタシオビーチリゾート
島の北西部タグバック地区には、宿泊施設が数件あります。こちらのリゾートも事前の調査で候補の一つでしたので見学してきました。
オーナーはアメリカ在住のフィリピン人女性だそうです。連絡先は管理人のおじさんの携帯電話になっていました。温和で人のよさそうな方でしたが、すべての仕事を任されているので電波の届かないところにいると電話が通じないこともあるようです。
海岸に接した広い敷地に、6室宿泊施設がありました。エアコンは完備ですが、やはり水シャワーでした。スタンダードルームは、共同トイレになっています。プールはありません。
1泊、800ペソ~



こちらのお部屋はオーナー用だそうですが、オーナーがいないときはゲストに貸し出しするそうです。この部屋にだけホットシャワーがあると教えてくれました。1泊、2500ペソ


リゾートに面したビーチから小野田さんが住んでいた山が見えます。

ティリック港近くのホテル
町役場のフラトン課長から、港近くに新しくホテルができたと聞き、マニラへ帰る日の朝に寄って見ました。



看板は無く入り口も閉まっていましたが、他にホテルらしい建物も見当たりませんでしたので、近くの露天業者に尋ねたところ、ここで間違いないとのことでした。
近所から管理人さんが出てきて、鍵を開けてくれましたので中を見せてもらいました。


1階の食堂


日本のビジネスホテルのような造りです。シャワーは水のみ


ティリック港から本当に近いです。

管理人さんに話を伺ったところ、ホテルの名前はまだ決まってないそうです。
前日はゲストがいなかったので閉めていたとのことでした。バタンガスからの便は、午後にしか着きませんので、ゲストが来たときだけオープンする感じですね。
カラタガン港とルバングを結ぶ定期便、GOD’S GRACE号のオーナーが、このホテルのオーナーでもあるそうです。


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フィリピン空軍エアロスペース博物館
ルバング島には、小野田さんの道具が残されていませんでしたので、後日マニラで見ることのできる博物館を行ってきました。



場所は、マニラ国際空港ターミナル3に接するヴィリヤモール空軍基地の一角、レミントンホテルの斜向かいにあります。空軍基地には一般人の立ち入りは禁止されておりますが、博物館見学に限り入場を許されます。以前は20ペソ程度の入場料が取られましたが、今回無料でした。


空軍入口



館内は名前の通り、フィリピン空軍に関する展示が主ですが、2階の一角に小野田さんに関するコーナーが設けられています。


小野田さんコーナー




小野田さんが使用していたというライフル
有坂銃明治38年モデルの記述がありました。







小野田さんが使用していたサバイバルグッズ。1974年にルバングの洞窟で見つかったとの記述が書かれています。


当時の新聞記事の切抜きも展示されています。









小野田さんが帰国後、当時のフィリピン空軍司令官へ書いた手紙。
ルバングのレーダー基地での投降式の際、小野田さんは処刑される覚悟でランクード司令官へ使用していた軍刀を差し出し降伏の意思を示しました。小野田さんの行為は軍への忠誠心の表れであったと理解を示し司令官は軍刀を返しています。その後、マルコス大統領の恩赦があり、昭和49年3月12日に小野田さんは帰国しています。

ルバング島に関するお問い合わせは
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